── 関与ログ ──経営の意図が、運用で別物になっていた構造
この組織の経営には、明確な意図があった。
顧客起点で考える。
数字は健全に管理する。
現場に裁量を持たせる。
思想としても、方向性としても、誤ってはいなかった。
問題は、その意図がどのように現場の判断へ落ちていったかだった。
運用の現場では、経営の意図はそのままでは使われなかった。
判断に落とすために、一度、運用に耐える形へ変換されていく。
顧客起点は、「社内で説明できる顧客像」になる。
裁量は、「確認を省く自由」になる。
数字管理は、「KPIに乗る行動」になる。
どれも、現場としては理解しやすく、扱いやすい解釈だった。
当事者の認識は、こうだった。
経営は、意図は十分に伝えていると考えている。
管理職は、現場が自律的に判断していると思っている。
現場は、経営の期待に応えようとしているつもりでいる。
意図は、共有されていた。
だが、意図がどの判断に接続されるのかは、共有されていなかった。
この構造では、判断は経営の意図から直接は生まれない。
一度、運用上都合のよい形に翻訳されたものだけが、判断の材料として残っていく。
・説明しやすいか
・管理しやすいか
・評価に乗るか
その条件を満たした行動だけが、「意図に沿っているもの」として扱われる。
結果として、経営の意図は守られているように見える。
一方で、実際の判断は、別の基準で最適化されていく。
顧客起点を掲げながら、社内承認が判断の起点になる。
裁量を与えたはずなのに、判断は先送りされていく。
管理を強めた結果、現場の判断は細くなる。
誰かが意図をねじ曲げたわけではない。
意図を判断へ落とす構造が、最初から設計されていなかった。
そのため、経営の言葉は正しく語られ続ける。
だが、現場では、別の意味でその言葉が使われ続ける。
やがて経営は、違和感を覚える。
「言っていることと、やっていることが 噛み合っていない」。
だが、その原因を、伝え方や浸透度の問題として捉えている限り、判断は戻ってこない。
起きていたのは、意図の不足ではない。
判断の接続先が空白だった。